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45歳で看護学校に入学、その生活を本に書いてベストセラーを狙い印税生活を夢見ている   ナースの日記です。
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あと10歳若かったら
 
 あと10歳若かったら、と最近よく思う。
 
 結局、長男はカナダのトロント大学に留学し、長女は自由の森学園の高等部に進級。私も看護学校の2年生になった今日この頃、よくこの1年を振り返る。
 今はこの地埼玉に住んで半年が過ぎた。だが、ここ埼玉に引越しするまでの経緯を私はけして忘れる事はないと思う。
 3年前の1998年の冬、私たちは義父母と同居すべく、バリアフリーの家を建てた。と言うのは、肺気腫で倒れた義父が退院後とても暴力的になり、別居していた長男夫婦である私たちに義母が助けを求めてきたからである。車椅子生活となった義父との同居にはそれなりの準備が必要だ。それが私たち夫婦が家を建てた理由である。
 だが、切羽詰った義母は、私たちが土地探しに奔走している間にも何度も電話をしてくる。
「早く、私たちを引きとってくれなくちゃ、今ここから飛び降りるわよ!今ベランダに足を掛けてるんだからね!」
 その都度、夫が義母の元に飛んで行く。仕事そっちのけで飛んで行く。2時間掛けて義母の元に飛んで行く。時には電話でなだめる。何時間も義母の話相手になる。
 「はやく、はやく」とまるで合言葉のようにして、家を、車椅子仕様の家を建てた。電動シャッターにスロープ付きの家。手すりとワイドな廊下。だが、その家に義父母は一度も来る事はなかった。
「あんな、親不幸な嫁のところなんかに行きたくもない!」
 義母は
「いつの日か、私自身の母も呼び寄せられたらいいな」
と言った、私の言葉に反発したのである。
 どんな理由があるにせよ、慌てて事を成すと大変な事になるものである。
 あんまり急いで土地を探したものだから、購入した土地は一千万の精算金が課せられた土地であった。精算金なるものが発生する事は知っていたが、そんなにも高額とは夢にも思っていなかったのである。今の私達にそんなお金を払う能力などなかった。
 土地の面積は45坪である。
 精算金とは、本来30坪の土地が区画整理したら45坪になったから、その差額分を払いなさいというものである。つまり、私たちは30坪の土地を45坪分の値段で購入したことになる。
 義母に来る意思の無い事を知らされた夜、夫と私はまだ建てて日の浅い自宅を売却する決心を固めた。私は何所に向けて良いか分からぬ悔しさで声を立てて泣いた。夫は
「ごめんね」
とだけ言って目を閉じていた。
 
 自宅は新築に近い、という事ですぐに買い手が付いた。だが、建てた時より2千万円も価格が下がった。1千万円は精算金分、500万円は1年で下がった土地の値下がり分、あとの500万円は買主の要望だ。
 私たちは逃げるようにこの地、埼玉に越してきた。以前住んでいた東京町田市からは2時間30分くらいかかる。何もかも新しく始めたかった。長女の学校の近くでもあり、生前不動産業を営んでいた父がよく埼玉の話をしてくれたのもこの地を選んだ一因だったと思う。
 「何故、私は看護師になろうとしているのか」
身体がきつい時、考える事がある。もう何度も自分自身に問い続けてきたのだけれど、それでも問い続けている。父と義父の2人とも私は何の世話もできなかった。父には申し訳無いと思い、義父には申し訳無さと反発とが入り混じった感情が残る。経済的安定もノドから手が出るほど欲しい。最近やっと自分の感情に整理がつけられたと思う。
 だが私の課題はまだ残っている。義母の性格を考えると
「私を早く引き取ってくれないとベランダから飛び降りるわよ!」
 と言って来るのに、さほどの時間はかからないだろうと推測できるからだ。
 その時私が何のこだわりも無く
「どうぞ、喜んで」
と義母を迎えられるかどうか。それが出来なければ義母だけでなく、私自身も又不幸になることを私は知っているから。
 今朝も4時30分に目覚まし時計がジリリリ…と鳴っている。時々こんな生活に46歳の心と身体が悲鳴をあげるからやっぱり、思ってしまうのだ。
「あと、10年若かったら…」
と。
 
 
あと10歳若かったら

 

 
 あと10歳若かったら、と最近よく思う。
 
 結局、長男はカナダのトロント大学に留学し、長女は自由の森学園の高等部に進級。私も看護学校の2年生になった今日この頃、よくこの1年を振り返る。
 今はこの地埼玉に住んで半年が過ぎた。だが、ここ埼玉に引越しするまでの経緯を私はけして忘れる事はないと思う。
 3年前の1998年の冬、私たちは義父母と同居すべく、バリアフリーの家を建てた。と言うのは、肺気腫で倒れた義父が退院後とても暴力的になり、別居していた長男夫婦である私たちに義母が助けを求めてきたからである。車椅子生活となった義父との同居にはそれなりの準備が必要だ。それが私たち夫婦が家を建てた理由である。
 だが、切羽詰った義母は、私たちが土地探しに奔走している間にも何度も電話をしてくる。
「早く、私たちを引きとってくれなくちゃ、今ここから飛び降りるわよ!今ベランダに足を掛けてるんだからね!」
 その都度、夫が義母の元に飛んで行く。仕事そっちのけで飛んで行く。2時間掛けて義母の元に飛んで行く。時には電話でなだめる。何時間も義母の話相手になる。
 「はやく、はやく」とまるで合言葉のようにして、家を、車椅子仕様の家を建てた。電動シャッターにスロープ付きの家。手すりとワイドな廊下。だが、その家に義父母は一度も来る事はなかった。
「あんな、親不幸な嫁のところなんかに行きたくもない!」
 義母は
「いつの日か、私自身の母も呼び寄せられたらいいな」
と言った、私の言葉に反発したのである。
 どんな理由があるにせよ、慌てて事を成すと大変な事になるものである。
 あんまり急いで土地を探したものだから、購入した土地は一千万の精算金が課せられた土地であった。精算金なるものが発生する事は知っていたが、そんなにも高額とは夢にも思っていなかったのである。今の私達にそんなお金を払う能力などなかった。
 土地の面積は45坪である。
 精算金とは、本来30坪の土地が区画整理したら45坪になったから、その差額分を払いなさいというものである。つまり、私たちは30坪の土地を45坪分の値段で購入したことになる。
 義母に来る意思の無い事を知らされた夜、夫と私はまだ建てて日の浅い自宅を売却する決心を固めた。私は何所に向けて良いか分からぬ悔しさで声を立てて泣いた。夫は
「ごめんね」
とだけ言って目を閉じていた。
 
 自宅は新築に近い、という事ですぐに買い手が付いた。だが、建てた時より2千万円も価格が下がった。1千万円は精算金分、500万円は1年で下がった土地の値下がり分、あとの500万円は買主の要望だ。
 私たちは逃げるようにこの地、埼玉に越してきた。以前住んでいた東京町田市からは2時間30分くらいかかる。何もかも新しく始めたかった。長女の学校の近くでもあり、生前不動産業を営んでいた父がよく埼玉の話をしてくれたのもこの地を選んだ一因だったと思う。
 「何故、私は看護師になろうとしているのか」
身体がきつい時、考える事がある。もう何度も自分自身に問い続けてきたのだけれど、それでも問い続けている。父と義父の2人とも私は何の世話もできなかった。父には申し訳無いと思い、義父には申し訳無さと反発とが入り混じった感情が残る。経済的安定もノドから手が出るほど欲しい。最近やっと自分の感情に整理がつけられたと思う。
 だが私の課題はまだ残っている。義母の性格を考えると
「私を早く引き取ってくれないとベランダから飛び降りるわよ!」
 と言って来るのに、さほどの時間はかからないだろうと推測できるからだ。
 その時私が何のこだわりも無く
「どうぞ、喜んで」
と義母を迎えられるかどうか。それが出来なければ義母だけでなく、私自身も又不幸になることを私は知っているから。
 今朝も4時30分に目覚まし時計がジリリリ…と鳴っている。時々こんな生活に46歳の心と身体が悲鳴をあげるからやっぱり、思ってしまうのだ。
「あと、10年若かったら…」
と。
 
 
 
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 どうして看護師になりたいのですか?
 
 「クイ―ンズ大学、ダメだっって結果がきたよ」
「えー、本当?」
 私の電話に息子のがっかりした声が聞こえてくる。
「アメリカの大学は高すぎてダメだからね。カナダの大学、受からなかったら日本の大学にするんだよ。いいね!」
「リーハイ大学は、本当にダメ?」
 既に合格しているアメリカの大学に行きたくて仕方の無い息子は再度、確認してくる。
「だって、お金、無いでしょう?」
 私もつい、大声になってしまう。
「わかった」
私の大声に恐れをなしたのか、息子は静かに言って電話を切った。
 お金が欲しい。
子どもたちに好きな進路を進ませてあげられるだけの、お金が欲しい。それも私が看護師になろうとしている大きな理由のひとつと言えるかもしれない。
 私はこの看護職を目指すまでに、いろいろパートの仕事を経験している。クリーニング屋さんの受付、クレジット会社のオペレーター、主婦向けの英語の教師。そして、夫の事務所のトレーサーなどだ。だが、そのどれを取っても、心の満足を得られる仕事ではなかった。なにか、空しくてたまらなかった。自分の居るべき場所が他にあるような気がして、いつも何か目に見えないものにせかされ焦っていた。
 夫は独立して、建築事務所を開いている。最近の不景気で、めっきり仕事が少なくなっている。その上、やっと取れた仕事は、安価なものばかりである。彼の友人たちの中には事務所をたたんだ人たちも多いと聞く。
 そんな事情もあって、私は看護師を目指したのかもしれない。
 では、看護学校に入学して、焦りは確信に代わったのか。否。答えはノーである。私はその自身の中にある「焦り」の正体を知りたいと思った。そのために、がむしゃらに勉強した。
 
 それでは、そんな主婦学生の一日を皆さんにお知らせしよう。
 起床は朝4時30分。
 高校生の長男と中学生の長女のお弁当作りで1日が始まる。5時には2人を起こし、食事の後片づけをしていると、5時30分をまわる。自分の身支度には15分間くらいかかる。学校に出かける準備をしていると、3歳の次女が起きてくる。しばらく抱っこしてから、彼女に朝食を食べさせる。ぐずる娘の相手をしているとすぐに6時20分くらいだ。その後を夫に任せ、ゴミ捨てをしながら自宅から十数歩のところにあるバス亭に向かう。長男、長女、私の3人で同じバスに乗るために。バスの窓から半べその次女の泣き顔が見える。
 バスの乗車時間、15分。この時間が長男、長女との貴重な接触時間となるため、色々な話をする。つまるところ、この時間以外2人の話を聞いてあげる時間がないのが実情なのだ。だから、私は真剣に彼等の話に耳を傾けざるをえないのである。彼等も実に良く話をしてくれる。本当はもっともっと、じっくり話をしたいのに、と心が揺れるときもある。
 学校までの通学時間はちょうど2時間だ。9時始まりの授業なのだが、私は8時35分に学校に到着する。他のクラスメートたちは50分か55分に来るので、誰もいない教室で大きな深呼吸をしてから授業に臨む。
 月曜日は一番大変な曜日だ。毎週ミニテストがある、解剖学があるからだ。授業のテンポも速い。そして、心理学もある。とても興味深く面白いのだが、レポートの提出が毎週あるのだ。おまけに、生化学もある。私には難しすぎてなかなか頭に入らない。毎回出される課題のプリントを仕上げるのに四苦八苦している。
 どうやって勉強時間を確保するのか、もっぱらの私の課題である。
 自宅に帰り着く5時30分~6時には3歳の娘がからみ付いてくる。娘をあやしながら食事の支度、お風呂の用意、洗濯、と家事が目白押しだからである。
 そうなると、答えはひとつ。ギュウギュウ詰めの満員電車の中、往復の通学時間を利用する。いつも、教科書の一部をコピーして持ち歩くことにする。
 そして、もうひとつ。空き時間を利用する。時々、授業の変更があって、空き時間ができることがあるのだ。でも、これはダメだ。銀行や郵便局など、夫の事務所の雑務をしていると終わってしまうから。
 そんなこんなで、次女が眠ってくれる夜の9時30分~10時ころから勉強を始めると、眠るのが夜中の12時近くなってしまう。睡眠時間4、5時間は45歳の身体には少々こたえる。授業中コックリなんてこともある。
 こんな風に私の一日は過ぎて行く。3歳の娘の保育園への送迎を頼んでいる分、夫にはもうこれ以上頼れないかな、と思っているので頑張らざるを得ないのが実情だ。
 くだんの長男、ICUと上智大学を既に合格しているのに、
「アメリカの大学に行きたいなどとワガママもいい加減にしろ!」
 と、怒鳴りたいのはヤマヤマであるが、身分不相応と思いつつ、何とかカナダの大学だったら行かせてあげたいなどと望んでしまうのだ。
 カナダの大学の方がアメリカの大学よりもずっと学費が安いから。だがこの決断は正しかったのかどうか。
 
 どうして看護師になりたいのですか?
 
 「クイ―ンズ大学、ダメだっって結果がきたよ」
「えー、本当?」
 私の電話に息子のがっかりした声が聞こえてくる。
「アメリカの大学は高すぎてダメだからね。カナダの大学、受からなかったら日本の大学にするんだよ。いいね!」
「リーハイ大学は、本当にダメ?」
 既に合格しているアメリカの大学に行きたくて仕方の無い息子は再度、確認してくる。
「だって、お金、無いでしょう?」
 私もつい、大声になってしまう。
「わかった」
私の大声に恐れをなしたのか、息子は静かに言って電話を切った。
 お金が欲しい。
子どもたちに好きな進路を進ませてあげられるだけの、お金が欲しい。それも私が看護師になろうとしている大きな理由のひとつと言えるかもしれない。
 私はこの看護職を目指すまでに、いろいろパートの仕事を経験している。クリーニング屋さんの受付、クレジット会社のオペレーター、主婦向けの英語の教師。そして、夫の事務所のトレーサーなどだ。だが、そのどれを取っても、心の満足を得られる仕事ではなかった。なにか、空しくてたまらなかった。自分の居るべき場所が他にあるような気がして、いつも何か目に見えないものにせかされ焦っていた。
 夫は独立して、建築事務所を開いている。最近の不景気で、めっきり仕事が少なくなっている。その上、やっと取れた仕事は、安価なものばかりである。彼の友人たちの中には事務所をたたんだ人たちも多いと聞く。
 そんな事情もあって、私は看護師を目指したのかもしれない。
 では、看護学校に入学して、焦りは確信に代わったのか。否。答えはノーである。私はその自身の中にある「焦り」の正体を知りたいと思った。そのために、がむしゃらに勉強した。
 
 それでは、そんな主婦学生の一日を皆さんにお知らせしよう。
 起床は朝4時30分。
 高校生の長男と中学生の長女のお弁当作りで1日が始まる。5時には2人を起こし、食事の後片づけをしていると、5時30分をまわる。自分の身支度には15分間くらいかかる。学校に出かける準備をしていると、3歳の次女が起きてくる。しばらく抱っこしてから、彼女に朝食を食べさせる。ぐずる娘の相手をしているとすぐに6時20分くらいだ。その後を夫に任せ、ゴミ捨てをしながら自宅から十数歩のところにあるバス亭に向かう。長男、長女、私の3人で同じバスに乗るために。バスの窓から半べその次女の泣き顔が見える。
 バスの乗車時間、15分。この時間が長男、長女との貴重な接触時間となるため、色々な話をする。つまるところ、この時間以外2人の話を聞いてあげる時間がないのが実情なのだ。だから、私は真剣に彼等の話に耳を傾けざるをえないのである。彼等も実に良く話をしてくれる。本当はもっともっと、じっくり話をしたいのに、と心が揺れるときもある。
 学校までの通学時間はちょうど2時間だ。9時始まりの授業なのだが、私は8時35分に学校に到着する。他のクラスメートたちは50分か55分に来るので、誰もいない教室で大きな深呼吸をしてから授業に臨む。
 月曜日は一番大変な曜日だ。毎週ミニテストがある、解剖学があるからだ。授業のテンポも速い。そして、心理学もある。とても興味深く面白いのだが、レポートの提出が毎週あるのだ。おまけに、生化学もある。私には難しすぎてなかなか頭に入らない。毎回出される課題のプリントを仕上げるのに四苦八苦している。
 どうやって勉強時間を確保するのか、もっぱらの私の課題である。
 自宅に帰り着く5時30分~6時には3歳の娘がからみ付いてくる。娘をあやしながら食事の支度、お風呂の用意、洗濯、と家事が目白押しだからである。
 そうなると、答えはひとつ。ギュウギュウ詰めの満員電車の中、往復の通学時間を利用する。いつも、教科書の一部をコピーして持ち歩くことにする。
 そして、もうひとつ。空き時間を利用する。時々、授業の変更があって、空き時間ができることがあるのだ。でも、これはダメだ。銀行や郵便局など、夫の事務所の雑務をしていると終わってしまうから。
 そんなこんなで、次女が眠ってくれる夜の9時30分~10時ころから勉強を始めると、眠るのが夜中の12時近くなってしまう。睡眠時間4、5時間は45歳の身体には少々こたえる。授業中コックリなんてこともある。
 こんな風に私の一日は過ぎて行く。3歳の娘の保育園への送迎を頼んでいる分、夫にはもうこれ以上頼れないかな、と思っているので頑張らざるを得ないのが実情だ。
 くだんの長男、ICUと上智大学を既に合格しているのに、
「アメリカの大学に行きたいなどとワガママもいい加減にしろ!」
 と、怒鳴りたいのはヤマヤマであるが、身分不相応と思いつつ、何とかカナダの大学だったら行かせてあげたいなどと望んでしまうのだ。
 カナダの大学の方がアメリカの大学よりもずっと学費が安いから。だがこの決断は正しかったのかどうか。
 
 

  クラスメート

 

 私は勉強する。大人なので、自分の意思で勉強している。

 45歳で看護学校に入学した私は1分1秒の授業の時間が惜しくて、分からない事はすぐに手を上げて質問してしまう。1つの授業で2、3回は質問してしまう。

 入学して2ケ月。目下、勉強が楽しくて、楽しくてたまらない。久しぶりの学生生活をおう歌していたのだが、災いは突然やってくるものである。

 「授業中、質問ばかりしてウザッタイ」

と言うクラスメートの言葉を耳にしたのである。これは私への言葉ではなかったけれど、私も同じように陰口を言われているのだろうか?そんな些細な事、と笑って無視すればいいのだがそれができない。私が手を挙げて発言すると

「あーあ、又長くなるなー」

 なんて言われたりするから、正直ヘコンでしまう。

「お母さん、それでしゃばりすぎ!」

なんて言われるとますます心が萎えてしまう。わたしのニックネームは「お母さん」である。長男と同じ歳の彼等にとっては「ウザッタイ」お母さんなのかもしれない、私は。

 睡眠時間45時間。ラッシュの中2時間の通学時間では45歳の身体は少々クタクタである。加えて3歳になりたての娘に

「ママ、お勉強しないでサリチャンと遊んで!保育園行くのいや!」

 なんて泣かれるともうたまらない。そんな中での出来事なので私は全くもって参ってしまった。

 やっと早めに、娘が寝てくれた夜、お酒のつまみに夫に事の次第を話してみた。お酒の力で話していたら不意に涙がこぼれてきた。夫は

「1週間くらい、質問するの止めてみたら?シャクだけど。きっと何か反応があって、自分でも見切りがつくと思うよ。いずれにしろ、大変だよ。君の歳で入学したんだから。僕だって若い子にうさんくさく思われた事、いっぱいあったよ。」

 と助言をくれた。

 夫は高卒のため1級建築士の資格をとるのに沢山の回り道をしてきている。経済的理由から、22歳で入学した夜間の大学も退学を余儀なくされている。夫は夫なりに思いがあったのであろう。

 授業中、あんなに活発に発言していた私がダンマリを決めてから1週間。色々な子が声を掛けてくれた。

「お母さん、疲れてない?この頃変だよ。」

 授業中手紙も回ってきた。

「色々あってヘコム事も多いけど、お互いポジテイブに頑張って行こうよ。自分らしく」

「目一杯頑張らないで。余力残しておいた方がいいよ。人間、結局は1人なのだから。1人だから助けあえるんだよ」

 それらの言葉に私は勇気づけられた。私よりずっと若い子に教えられた。そうだ、肩の力を抜いて、私らしく生きていこう。

 ありがとう、と振り返ったら、何人かの子がニッコリ笑ってvサインを送ってくれた。私も思わず笑ってしまった。

 そんな折、心理学の授業でフロイト派の一人、ロジャーズの理論を学んだ。

「自己実現できている人は回りの人の評判だとか、言動が気にならずにいられる。自己実現のためには自己一致が条件であり、自己一致とは本当の自分と今ある自分とがかけ離れた存在でないことである」

 先生の説明で夫の言った「見切り」をつけられた思いにがした。

 

394番。
合格発表の掲示板の中に自分の受験番号をみつけた。
戸惑いもあった。合格しちゃった、と思ったりもした。
合格書類をもらいに行ったら
「45歳の新入生は初めて。ビックリ!」
なんて言われた。

学校の費用を稼ぎながらの受験だった。
長男の大学受験と重なったから、尚大変。
下の子もやっと、3歳になったばかり。
脳腫瘍で死んだ父の葬儀の朝、出した願書。

だから、やっぱり嬉しかった。けど、不安の塊のワタシ。
「息子と同年齢の子たちと、やっていけるかな」

合格してからは、ダイエットもした。少しだけ、細くなったきがする。
そんなワタシに
「おばさんでいいじゃない。正真正銘のおばさんなんだから、
堂々とおばさん、やっておいでよ」
夫の言葉に、少し気が楽になった。

さあ、来月からおばさん学生の始まりだ!

はじめは、ほんの思いつきだった。

ある日、突然看護学校に行こう、と思い立ったのだ。
大学の友人が遊びにきていたときのこと。
「私、看護学校に行こうと思うのよ」
言った私がビックリしちゃったくらい、突然言葉が出てきたの。
長男17歳、長女13歳、次女2歳の秋のこと。父が脳腫瘍で入院中。もうあまり先がない。

「無理よ。この大変な時に。もう45歳よ、あなた。」
友達が笑う。

そうだよね。そのとおり。当たり前。長男の受験。次女の世話。そして、父のターミナル。
でもね、きっとそんなときだから、天邪鬼な私が出てきたのね。
父の力にもなりたいし…。
でも、その夜夫に話したら、当然反対すると思ってた夫の言葉に、またまたビックリ。
「いいよ。頑張ってみたら…。今まで僕のことで大変だったから、今度は君の番だよ」

夫は建築士の資格を取るのに、何年もの年月がかかったから。高校卒の夫は、2級の資格を取るのに数年。5年の職歴の後、1級受験。その間、パパは受験だから、と子供に言い聞かせ、我慢させた。私の苦労なんて、きっと分かってくれてなんかいないって思ってた。

12月。社会人枠の受験に失敗。面接と作文。それだけで諦める私じゃない。翌年、英語、数学、国語の3教科で再受験。長男と一緒の受験。

受験勉強中、父と義父が新年早々同じ月に亡くなった。
父の葬儀の朝、願書を提出。
合格となった。
「和子が看護師さんじゃ、安心だな」
父の声が聞えてきた。



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