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45歳で看護学校に入学、その生活を本に書いてベストセラーを狙い印税生活を夢見ている   ナースの日記です。
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病院実習の中での印象深いエピソードを3っつここに紹介したいと思う。
 1つ目は産婦人科実習の時の事である。
担当はインド人の初産婦さん。国民性というのだろうか。まだ産道(赤ちゃんが出てくる道)が殆ど開いていないのに、
「イタイ、イタイ、ダーリン助けて!こんなに痛いなら、子供なんか産みたくな~い!」
と、絶叫しまくる。旦那さんも旦那さんで  
「大丈夫、大丈夫だよ。ダーリン、大丈夫だよ」
と、とても優しい。彼もまた、妻の苦しんでいる姿をみていられなくて、何度も私に問い掛ける。
「まだですか?まだ産まれませんか?」
「まだまだ時間かかりますよ」
言葉を聞いた助産師さんが答える。
 そういった何回かのやり取りの後、隣の分娩室へ移動。いよいよ出産の時だ。ここでの絶叫は以前のとは比べものにならない。
「イタイよ~!イタイよ~!ダーリンた・す・け・て~!」
 病院中に響き渡る声の最後の方は言葉にならない。苦痛で歪んだ顔は過換気症候郡(息を吸いすぎ,血液に酸素が多くなりすぎて、手足がしびれたり、めまい等が起こる)を起こし、顔面蒼白になっている。そんな彼女を落ち着かせ、呼吸を整えさせる。
 助産師さんは慌てない。時には優しく、時には厳しく接している。
「すごいな。いつか私もこんな風にデキル看護師になりたいな。」
と、心底、プロの仕事ぶりに敬服した一件だった。
 その後、くだんのインド人の産婦さんは4kgもの赤ちゃんを無事、出産。4kgもあったのだから、私だって叫んだかも、と思う。いずれにしろ、母子共に健康で、良かった、良かった。
 
 産婦人科には明と暗がある。出産は明の部分。中絶が暗の部分だと思う。
 2つ目のエピソードはその暗の部分である。実習中に私は2度、中絶の手術に立ち会う機会があった。
 その内の1件は悲惨なものであった。受け持ちの患者さんの都合で、途中からの立会いであったが、私が手術室に入った時はもう、胎児の頭が割られ、膿盆に置かれていた。まだほんの小さな顔の窪みに閉じた眼があった。
「僕は産まれたかったのに…」
と、訴えているようだった。
 まだ手術台に横たわっている患者さんは、18歳の我が長女と同じ年くらいに見えた。2人の娘達には、けしてこんなことはして欲しくないと切に思った。
 
 3っつ目は精神科実習の時のエピソードである。
 20代後半の男性患者さんを私は受け持つ事になった。真面目で紳士的。そして、とても穏やか。これが彼に持った私の印象だった。
「本当に、精神病院の入院患者さんなのだろうか」
と、思う程であった。
 精神病院は男性病棟、女性病棟に分かれ、更に病気の種類や重症度によって、閉鎖病棟、開放病棟に分かれている。
 自分の意思で入院した人は、自分の意思で退院を申し出る事ができる。そして、医師が認めて、退院できる。
 私の受け持ったAさんは自分から、入院に同意した人であった。退院まであと少しと、説明してくれた。
 彼は京都の有名な大学を卒業し、一流の企業に入社した。大きなプロジェクトを任され、寝る間も惜しんで仕事に打ち込んだと言う。余りに早い昇進故、部下が年上となってしまった。結果として、部下から反感を買い、彼の言う通りには動いてくれない。今まで、順調に人生を歩んで来た彼には、どうしたら良いのか分からない。
 「僕が早く昇進しすぎたから、皆妬んで動いてくれないんだ。」
と、考えた彼は今までにも増して仕事に励んだと言う。成果を出したいと思えば思う程、独りで空回りしてくる。
 「もう駄目だ」
そう、考えた彼は、手首を切って自殺しようとした。
 何度も手首を切ったものの、死にきれず彼は上司に助けを求めたのだった。以上がAさんの入院までのいきさつである。
 当時の私は、自殺が精神病院の診療範囲に入ることさえ知らないでいた。だから、正直ビックリした。かつて、私も何度か死にたいと思ったことがあるからだ。あの時実行して未遂に終わっていたら、私もここにいるかもしれなかったからだ。
 Aさんは頭が良い。それゆえに、人の心を読もうとする。学生がレポートを書かねばならないのを良く知っていて、病状を自ら分析し、図に表したものを私に見せてくれた。自分の性格、置かれた環境、自殺を図るに至った心の経緯、更にこれから自分が取るべき行動、改めねばならない点などを事細かに図に示してある。この図を入院して2週目に一気に書き上げたと言うのだ。
 その事を実習指導の男性看護師に(何故かその精神科病棟の看護師は、殆どが男性だった)報告すると、彼は輸すように言った。
「そうやって、分析している事自体が問題なんだよ」
 Aさんの退院の時は、すでに実習は終了していた。心優しい彼は、今頃どうしているだろう。願わくは、2度と自殺を図る事も無く、Aさんらしい生活を送れるようにと、祈るばかりである。
 
病院実習の中での印象深いエピソードを3っつここに紹介したいと思う。

 

病院実習の中での印象深いエピソードを3っつここに紹介したいと思う。

 1つ目は産婦人科実習の時の事である。

担当はインド人の初産婦さん。国民性というのだろうか。まだ産道(赤ちゃんが出てくる道)が殆ど開いていないのに、

「イタイ、イタイ、ダーリン助けて!こんなに痛いなら、子供なんか産みたくな~い!」

と、絶叫しまくる。旦那さんも旦那さんで  

「大丈夫、大丈夫だよ。ダーリン、大丈夫だよ」

と、とても優しい。彼もまた、妻の苦しんでいる姿をみていられなくて、何度も私に問い掛ける。

「まだですか?まだ産まれませんか?」

「まだまだ時間かかりますよ」

言葉を聞いた助産師さんが答える。

 そういった何回かのやり取りの後、隣の分娩室へ移動。いよいよ出産の時だ。ここでの絶叫は以前のとは比べものにならない。

「イタイよ~!イタイよ~!ダーリンた・す・け・て~!」

 病院中に響き渡る声の最後の方は言葉にならない。苦痛で歪んだ顔は過換気症候郡(息を吸いすぎ,血液に酸素が多くなりすぎて、手足がしびれたり、めまい等が起こる)を起こし、顔面蒼白になっている。そんな彼女を落ち着かせ、呼吸を整えさせる。

 助産師さんは慌てない。時には優しく、時には厳しく接している。

「すごいな。いつか私もこんな風にデキル看護師になりたいな。」

と、心底、プロの仕事ぶりに敬服した一件だった。

 その後、くだんのインド人の産婦さんは4kgもの赤ちゃんを無事、出産。4kgもあったのだから、私だって叫んだかも、と思う。いずれにしろ、母子共に健康で、良かった、良かった。

 

 産婦人科には明と暗がある。出産は明の部分。中絶が暗の部分だと思う。

 2つ目のエピソードはその暗の部分である。実習中に私は2度、中絶の手術に立ち会う機会があった。

 その内の1件は悲惨なものであった。受け持ちの患者さんの都合で、途中からの立会いであったが、私が手術室に入った時はもう、胎児の頭が割られ、膿盆に置かれていた。まだほんの小さな顔の窪みに閉じた眼があった。

「僕は産まれたかったのに…」

と、訴えているようだった。

 まだ手術台に横たわっている患者さんは、18歳の我が長女と同じ年くらいに見えた。2人の娘達には、けしてこんなことはして欲しくないと切に思った。

 

 3っつ目は精神科実習の時のエピソードである。

 20代後半の男性患者さんを私は受け持つ事になった。真面目で紳士的。そして、とても穏やか。これが彼に持った私の印象だった。

「本当に、精神病院の入院患者さんなのだろうか」

と、思う程であった。

 精神病院は男性病棟、女性病棟に分かれ、更に病気の種類や重症度によって、閉鎖病棟、開放病棟に分かれている。

 自分の意思で入院した人は、自分の意思で退院を申し出る事ができる。そして、医師が認めて、退院できる。

 私の受け持ったAさんは自分から、入院に同意した人であった。退院まであと少しと、説明してくれた。

 彼は京都の有名な大学を卒業し、一流の企業に入社した。大きなプロジェクトを任され、寝る間も惜しんで仕事に打ち込んだと言う。余りに早い昇進故、部下が年上となってしまった。結果として、部下から反感を買い、彼の言う通りには動いてくれない。今まで、順調に人生を歩んで来た彼には、どうしたら良いのか分からない。

 「僕が早く昇進しすぎたから、皆妬んで動いてくれないんだ。」

と、考えた彼は今までにも増して仕事に励んだと言う。成果を出したいと思えば思う程、独りで空回りしてくる。

 「もう駄目だ」

そう、考えた彼は、手首を切って自殺しようとした。

 何度も手首を切ったものの、死にきれず彼は上司に助けを求めたのだった。以上がAさんの入院までのいきさつである。

 当時の私は、自殺が精神病院の診療範囲に入ることさえ知らないでいた。だから、正直ビックリした。かつて、私も何度か死にたいと思ったことがあるからだ。あの時実行して未遂に終わっていたら、私もここにいるかもしれなかったからだ。

 Aさんは頭が良い。それゆえに、人の心を読もうとする。学生がレポートを書かねばならないのを良く知っていて、病状を自ら分析し、図に表したものを私に見せてくれた。自分の性格、置かれた環境、自殺を図るに至った心の経緯、更にこれから自分が取るべき行動、改めねばならない点などを事細かに図に示してある。この図を入院して2週目に一気に書き上げたと言うのだ。

 その事を実習指導の男性看護師に(何故かその精神科病棟の看護師は、殆どが男性だった)報告すると、彼は輸すように言った。

「そうやって、分析している事自体が問題なんだよ」

 Aさんの退院の時は、すでに実習は終了していた。心優しい彼は、今頃どうしているだろう。願わくは、2度と自殺を図る事も無く、Aさんらしい生活を送れるようにと、祈るばかりである。

 

 1つ目は産婦人科実習の時の事である。
担当はインド人の初産婦さん。国民性というのだろうか。まだ産道(赤ちゃんが出てくる道)が殆ど開いていないのに、
「イタイ、イタイ、ダーリン助けて!こんなに痛いなら、子供なんか産みたくな~い!」
と、絶叫しまくる。旦那さんも旦那さんで  
「大丈夫、大丈夫だよ。ダーリン、大丈夫だよ」
と、とても優しい。彼もまた、妻の苦しんでいる姿をみていられなくて、何度も私に問い掛ける。
「まだですか?まだ産まれませんか?」
「まだまだ時間かかりますよ」
言葉を聞いた助産師さんが答える。
 そういった何回かのやり取りの後、隣の分娩室へ移動。いよいよ出産の時だ。ここでの絶叫は以前のとは比べものにならない。
「イタイよ~!イタイよ~!ダーリンた・す・け・て~!」
 病院中に響き渡る声の最後の方は言葉にならない。苦痛で歪んだ顔は過換気症候郡(息を吸いすぎ,血液に酸素が多くなりすぎて、手足がしびれたり、めまい等が起こる)を起こし、顔面蒼白になっている。そんな彼女を落ち着かせ、呼吸を整えさせる。
 助産師さんは慌てない。時には優しく、時には厳しく接している。
「すごいな。いつか私もこんな風にデキル看護師になりたいな。」
と、心底、プロの仕事ぶりに敬服した一件だった。
 その後、くだんのインド人の産婦さんは4kgもの赤ちゃんを無事、出産。4kgもあったのだから、私だって叫んだかも、と思う。いずれにしろ、母子共に健康で、良かった、良かった。
 
 産婦人科には明と暗がある。出産は明の部分。中絶が暗の部分だと思う。
 2つ目のエピソードはその暗の部分である。実習中に私は2度、中絶の手術に立ち会う機会があった。
 その内の1件は悲惨なものであった。受け持ちの患者さんの都合で、途中からの立会いであったが、私が手術室に入った時はもう、胎児の頭が割られ、膿盆に置かれていた。まだほんの小さな顔の窪みに閉じた眼があった。
「僕は産まれたかったのに…」
と、訴えているようだった。
 まだ手術台に横たわっている患者さんは、18歳の我が長女と同じ年くらいに見えた。2人の娘達には、けしてこんなことはして欲しくないと切に思った。
 
 3っつ目は精神科実習の時のエピソードである。
 20代後半の男性患者さんを私は受け持つ事になった。真面目で紳士的。そして、とても穏やか。これが彼に持った私の印象だった。
「本当に、精神病院の入院患者さんなのだろうか」
と、思う程であった。
 精神病院は男性病棟、女性病棟に分かれ、更に病気の種類や重症度によって、閉鎖病棟、開放病棟に分かれている。
 自分の意思で入院した人は、自分の意思で退院を申し出る事ができる。そして、医師が認めて、退院できる。
 私の受け持ったAさんは自分から、入院に同意した人であった。退院まであと少しと、説明してくれた。
 彼は京都の有名な大学を卒業し、一流の企業に入社した。大きなプロジェクトを任され、寝る間も惜しんで仕事に打ち込んだと言う。余りに早い昇進故、部下が年上となってしまった。結果として、部下から反感を買い、彼の言う通りには動いてくれない。今まで、順調に人生を歩んで来た彼には、どうしたら良いのか分からない。
 「僕が早く昇進しすぎたから、皆妬んで動いてくれないんだ。」
と、考えた彼は今までにも増して仕事に励んだと言う。成果を出したいと思えば思う程、独りで空回りしてくる。
 「もう駄目だ」
そう、考えた彼は、手首を切って自殺しようとした。
 何度も手首を切ったものの、死にきれず彼は上司に助けを求めたのだった。以上がAさんの入院までのいきさつである。
 当時の私は、自殺が精神病院の診療範囲に入ることさえ知らないでいた。だから、正直ビックリした。かつて、私も何度か死にたいと思ったことがあるからだ。あの時実行して未遂に終わっていたら、私もここにいるかもしれなかったからだ。
 Aさんは頭が良い。それゆえに、人の心を読もうとする。学生がレポートを書かねばならないのを良く知っていて、病状を自ら分析し、図に表したものを私に見せてくれた。自分の性格、置かれた環境、自殺を図るに至った心の経緯、更にこれから自分が取るべき行動、改めねばならない点などを事細かに図に示してある。この図を入院して2週目に一気に書き上げたと言うのだ。
 その事を実習指導の男性看護師に(何故かその精神科病棟の看護師は、殆どが男性だった)報告すると、彼は輸すように言った。
「そうやって、分析している事自体が問題なんだよ」
 Aさんの退院の時は、すでに実習は終了していた。心優しい彼は、今頃どうしているだろう。願わくは、2度と自殺を図る事も無く、Aさんらしい生活を送れるようにと、祈るばかりである。
 
 
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実習 ①
 
 「頑張れば、良い事があるよ。いっしょうけんめい頑張れば、必ず良い事があるよ」
 辛い時はいつも、亡き父が夢で私を励ましてくれた。
 
 2年生になると本格的専門分野の勉強が主になる。人の献体を使っての学習もある。まだ父を亡くして日の浅い私にはショックな解剖実習だった。ホルマリン漬けの献体は何とも言えない臭いがする。皮膚を開き、筋肉、血管、臓器と1つ1つ確認していく。今まで教科書(臓器が分かるように実際の人体を開いた写真)でしか分かっていなかった諸器官や臓器を実際の人間で確認していくのが目的である。肝臓、心臓といった臓器は実際に重さを量ったりする。
 ここに来る遺体の中には遺族が引き取りたくないがために、献体として差し出されるケースも多いと聞いた。そのため病院からそのままこの施設にやって来る献体も多いと聞いた。医学を志す者の役に立つとはいえ、職員さんの話しを聞いて、何だかとても悲しくなった。
 3年生になるとその殆どを自習する病院で過すことになる。
「実習は大変だよ。辛いよ。」
と、上級生に聞いていたため私は一計を図った。土用、日曜のアルバイトを始めたのである。とても厳しくて、バンバン怒鳴られる仕事がいい。
 そこで、私には不向きな食品メーカーのレトルト製品を作って工場で働くことにした。早朝、4時30分起きで仕事に赴き、大きな鍋で食品を作り、袋詰めし、倉庫に積み上げる。寒いし、眠いし、何より力仕事である。加えて、何時までに完成させなくてはならないというノルマがある。怒鳴られ、時には焦りのあまり、火傷を負ったこともある。そんな、嫌で嫌で仕方ない仕事を経験すれば、辛いという実習も天国のように思えるのではないだろうか。
 実は、私は打たれ弱いのである。根はお気楽な性格なのではあるが、面と向かって強い言葉を言われると、何日も何日も落ち込んでしまう。そこを何とかしないと実習を乗りきれないのではないか。恐怖が頭をもたげた。
 思惑通り、今まであんなに嫌で辛かった実習が
「なんだ、アルバイトに比べたら何てことないじゃない。」
と思えるのだから、この方法は正しかったと言えるであろう。
 実習が始まった。いままでは6時に自宅を出ていたが、5時半には出ることになった。冬の朝はまだまだ開けず、月や星が出ている時間だ。
 病院では3週間毎に自習場所が変わる。内科、小児科、外科、循環器病棟、精神科、産婦人科、整形外科等順にまわって、それぞれ1~3人くらいの患者様を担当させていただく。
 患者様のケアをするためには、まずその病態を勉強する必要がある。ドクターがどのような治療を実施しているのか、どのような薬品を処方しているのか、その副作用は何か。それらを考え、入院中、または退院後に予想される肉体的、精神的看護問題を抽出する。そしてその問題を解決するための、看護計画を立てる。長期目標と短期目標を設定し、その具体策をたててゆく。また、その具体策を施行する医学的根拠は何か。といったことをプランニングしレポートでまとめてゆかねばならない。
 更に,その科ごと、患者様ごと、複数の問題があればその問題ごとに計画をたててゆかねばならない。そしてケアを実施し結果はどうだったか、評価する。目標は達成されたか。達成されなければ、なぜ達成されなかったのか考え、計画を修正し再実施する。
 私は勉強不足と技術の未熟さで、何度も悔しくて泣いた事がある。患者様に申し訳なくて、泣いた事もある。自分との戦いの日々だったと思う。患者様はこちらが学生だからなどとは関係ないのだ。
 「点滴が終わりました」
「トイレに行きたい」
等言われてもその方の病態が分からなければ何もできない。安静度が分からなければ介助の方法も分からない。
 ましてや、まだ資格もない学生の身、終了した点滴のクレンメ(滴下を止めるもの。終了して長くそのままだと血液が逆流して固まってしまう。、続けて点滴を施行する必要のある場合は早く止めないと再度注射針を刺し変えねばならないことにもなる)ひとつ止める事も出来ない。
 だが、患者さんにとってはそんな事は関係ない。受け持ちの患者さんでなくても、声を掛けられる。自分独りで対処できそうな時は、カルテを見て安静度(どのくらい動いて良いと石かた指示がでている)や病名、治療方針を確認してから行動する。対処が無理な場合は担当の看護師さんに報告する。
 ところが、この看護師さんがなかなか見つからない。他の患者さんの処置をしていたりする。
 「今すぐ報告すべきか、否か。この場所で報告しても良いかどうか」
カルテを見て判断するのだが、勉強不足の身とて、なかなかスムースにいかない。
 ある時、緊急に報告せねばならない事態に遭遇した。受け持ち患者さんの腕が腫れていたのだ。点滴漏れではないかと思った。そこで看護師さんに報告するのだが、看護師さんならだれでもいいかというと、そうではない。担当の看護師さんを調べ、その人に言わねばならないのだ。担当の看護師さんが見つからないので、他の看護師さんに報告する。ところが、
「私の担当じゃあないわよ。○○さんに言ってよ。今、手が話せないのよ!」
と、語気が荒い。
 胸がドキドキする。泣きたくなる。
「患者さんのため何とかしなきゃ」
 その後幸いにも担当の看護師さんが見つかり、報告できたのだが
「なんで誰でも良いから、早く看護師に言わないのよ!」
と怒鳴られる。
 担当だって、担当でなくったって看護師さんなんかどこにもいなくて、見つからなかったじゃあない。
 白衣の天使を夢見ていたのに。切なくてやりきれなくなる。
 
実習 ①
 
 「頑張れば、良い事があるよ。いっしょうけんめい頑張れば、必ず良い事があるよ」
 辛い時はいつも、亡き父が夢で私を励ましてくれた。
 
 2年生になると本格的専門分野の勉強が主になる。人の献体を使っての学習もある。まだ父を亡くして日の浅い私にはショックな解剖実習だった。ホルマリン漬けの献体は何とも言えない臭いがする。皮膚を開き、筋肉、血管、臓器と1つ1つ確認していく。今まで教科書(臓器が分かるように実際の人体を開いた写真)でしか分かっていなかった諸器官や臓器を実際の人間で確認していくのが目的である。肝臓、心臓といった臓器は実際に重さを量ったりする。
 ここに来る遺体の中には遺族が引き取りたくないがために、献体として差し出されるケースも多いと聞いた。そのため病院からそのままこの施設にやって来る献体も多いと聞いた。医学を志す者の役に立つとはいえ、職員さんの話しを聞いて、何だかとても悲しくなった。
 3年生になるとその殆どを自習する病院で過すことになる。
「実習は大変だよ。辛いよ。」
と、上級生に聞いていたため私は一計を図った。土用、日曜のアルバイトを始めたのである。とても厳しくて、バンバン怒鳴られる仕事がいい。
 そこで、私には不向きな食品メーカーのレトルト製品を作って工場で働くことにした。早朝、4時30分起きで仕事に赴き、大きな鍋で食品を作り、袋詰めし、倉庫に積み上げる。寒いし、眠いし、何より力仕事である。加えて、何時までに完成させなくてはならないというノルマがある。怒鳴られ、時には焦りのあまり、火傷を負ったこともある。そんな、嫌で嫌で仕方ない仕事を経験すれば、辛いという実習も天国のように思えるのではないだろうか。
 実は、私は打たれ弱いのである。根はお気楽な性格なのではあるが、面と向かって強い言葉を言われると、何日も何日も落ち込んでしまう。そこを何とかしないと実習を乗りきれないのではないか。恐怖が頭をもたげた。
 思惑通り、今まであんなに嫌で辛かった実習が
「なんだ、アルバイトに比べたら何てことないじゃない。」
と思えるのだから、この方法は正しかったと言えるであろう。
 実習が始まった。いままでは6時に自宅を出ていたが、5時半には出ることになった。冬の朝はまだまだ開けず、月や星が出ている時間だ。
 病院では3週間毎に自習場所が変わる。内科、小児科、外科、循環器病棟、精神科、産婦人科、整形外科等順にまわって、それぞれ1~3人くらいの患者様を担当させていただく。
 患者様のケアをするためには、まずその病態を勉強する必要がある。ドクターがどのような治療を実施しているのか、どのような薬品を処方しているのか、その副作用は何か。それらを考え、入院中、または退院後に予想される肉体的、精神的看護問題を抽出する。そしてその問題を解決するための、看護計画を立てる。長期目標と短期目標を設定し、その具体策をたててゆく。また、その具体策を施行する医学的根拠は何か。といったことをプランニングしレポートでまとめてゆかねばならない。
 更に,その科ごと、患者様ごと、複数の問題があればその問題ごとに計画をたててゆかねばならない。そしてケアを実施し結果はどうだったか、評価する。目標は達成されたか。達成されなければ、なぜ達成されなかったのか考え、計画を修正し再実施する。
 私は勉強不足と技術の未熟さで、何度も悔しくて泣いた事がある。患者様に申し訳なくて、泣いた事もある。自分との戦いの日々だったと思う。患者様はこちらが学生だからなどとは関係ないのだ。
 「点滴が終わりました」
「トイレに行きたい」
等言われてもその方の病態が分からなければ何もできない。安静度が分からなければ介助の方法も分からない。
 ましてや、まだ資格もない学生の身、終了した点滴のクレンメ(滴下を止めるもの。終了して長くそのままだと血液が逆流して固まってしまう。、続けて点滴を施行する必要のある場合は早く止めないと再度注射針を刺し変えねばならないことにもなる)ひとつ止める事も出来ない。
 だが、患者さんにとってはそんな事は関係ない。受け持ちの患者さんでなくても、声を掛けられる。自分独りで対処できそうな時は、カルテを見て安静度(どのくらい動いて良いと石かた指示がでている)や病名、治療方針を確認してから行動する。対処が無理な場合は担当の看護師さんに報告する。
 ところが、この看護師さんがなかなか見つからない。他の患者さんの処置をしていたりする。
 「今すぐ報告すべきか、否か。この場所で報告しても良いかどうか」
カルテを見て判断するのだが、勉強不足の身とて、なかなかスムースにいかない。
 ある時、緊急に報告せねばならない事態に遭遇した。受け持ち患者さんの腕が腫れていたのだ。点滴漏れではないかと思った。そこで看護師さんに報告するのだが、看護師さんならだれでもいいかというと、そうではない。担当の看護師さんを調べ、その人に言わねばならないのだ。担当の看護師さんが見つからないので、他の看護師さんに報告する。ところが、
「私の担当じゃあないわよ。○○さんに言ってよ。今、手が話せないのよ!」
と、語気が荒い。
 胸がドキドキする。泣きたくなる。
「患者さんのため何とかしなきゃ」
 その後幸いにも担当の看護師さんが見つかり、報告できたのだが
「なんで誰でも良いから、早く看護師に言わないのよ!」
と怒鳴られる。
 担当だって、担当でなくったって看護師さんなんかどこにもいなくて、見つからなかったじゃあない。
 白衣の天使を夢見ていたのに。切なくてやりきれなくなる。
 
 
望み
 
 打たれ強くなりたいと思う。
 多少のことではへこたれず、自分の意思を貫いて目的を達成する強さを持ちたい。
 嫌なことや辛いことがあっても、
「なにくそ」
と頑張って雑草のように強くしなやかに生きてゆきたいと思う。
 私は46歳になった。3人の子持ちにして看護学校の2年生にも進級した。学校では息子と同年齢の子達と机を並べ、レポートに自習にと、悪戦苦闘の日々である。週番や掃除当番だってやらねばならない。
 帰宅すると4歳になった次女や夫に挨拶もそこそこにキッチンに立つ。高校1年の長女は私より帰りが遅い。夫は自宅で設計の仕事をしているので、次女の保育園送迎はもっぱら彼の仕事になっている。だから、私が弱音を吐くわけにはいかないのだが
「もうダメだあ」
と何度も声にならない声をあげている。
 若いクラスメートとの折り合いのつけ方。睡眠不足になりながらのテスト勉強。一回りも若い先生方や実習先の看護師さんからのキツイお言葉。そして、朝4時30分の起床。来年は3年生。実習が本格的となる。今でさえ辛いのに、もっと大変な来年はどうするのだ。とても乗り越えてゆけるとは思えない。
 そこで、私は考えた。今より辛い状況にわが身を置いて心を強くすれば、きっと残りの1年を耐えられる。
 アルバイトを始めた。土曜と日曜日、6時~9時の3時間の仕事である。いつものように4時30分に起きて5時に自宅を出る。工場での仕事。ビシバシ怒鳴られる仕事である。 大きな釜でファミリーレストラン用の食材を作って袋詰する。時には失敗して熱湯を手に浴びた事もある。仕事が遅いと怒鳴られる。そんなアルバイトを約1年やった。
 ひとりでは余りに心細いので長女を誘ってみた。高校生になってアルバイトなるものを経験してみたい長女にしてみれば、渡りに船だったようである。私と娘は違うラインだったがお互い、いい経験をしたと思っている。 
 この経験のお陰で、私は最後の1年間の実習を乗りきれたのだと信じている。入学当初は45人だったクラスメートが、卒業時は33人になっていたのだから、卒業までの大変さは想像に難くないであろう。
 アルバイトの辛い経験がなければ私も卒業前にギブアップしていたかもしれない。少しの事で心が揺れてしまう自分が嫌で、少しでも強くなりたいと、願った苦肉の策だったのだ。
 
望み

 

 
 打たれ強くなりたいと思う。
 多少のことではへこたれず、自分の意思を貫いて目的を達成する強さを持ちたい。
 嫌なことや辛いことがあっても、
「なにくそ」
と頑張って雑草のように強くしなやかに生きてゆきたいと思う。
 私は46歳になった。3人の子持ちにして看護学校の2年生にも進級した。学校では息子と同年齢の子達と机を並べ、レポートに自習にと、悪戦苦闘の日々である。週番や掃除当番だってやらねばならない。
 帰宅すると4歳になった次女や夫に挨拶もそこそこにキッチンに立つ。高校1年の長女は私より帰りが遅い。夫は自宅で設計の仕事をしているので、次女の保育園送迎はもっぱら彼の仕事になっている。だから、私が弱音を吐くわけにはいかないのだが
「もうダメだあ」
と何度も声にならない声をあげている。
 若いクラスメートとの折り合いのつけ方。睡眠不足になりながらのテスト勉強。一回りも若い先生方や実習先の看護師さんからのキツイお言葉。そして、朝4時30分の起床。来年は3年生。実習が本格的となる。今でさえ辛いのに、もっと大変な来年はどうするのだ。とても乗り越えてゆけるとは思えない。
 そこで、私は考えた。今より辛い状況にわが身を置いて心を強くすれば、きっと残りの1年を耐えられる。
 アルバイトを始めた。土曜と日曜日、6時~9時の3時間の仕事である。いつものように4時30分に起きて5時に自宅を出る。工場での仕事。ビシバシ怒鳴られる仕事である。 大きな釜でファミリーレストラン用の食材を作って袋詰する。時には失敗して熱湯を手に浴びた事もある。仕事が遅いと怒鳴られる。そんなアルバイトを約1年やった。
 ひとりでは余りに心細いので長女を誘ってみた。高校生になってアルバイトなるものを経験してみたい長女にしてみれば、渡りに船だったようである。私と娘は違うラインだったがお互い、いい経験をしたと思っている。 
 この経験のお陰で、私は最後の1年間の実習を乗りきれたのだと信じている。入学当初は45人だったクラスメートが、卒業時は33人になっていたのだから、卒業までの大変さは想像に難くないであろう。
 アルバイトの辛い経験がなければ私も卒業前にギブアップしていたかもしれない。少しの事で心が揺れてしまう自分が嫌で、少しでも強くなりたいと、願った苦肉の策だったのだ。
 
 
 神様の与えてくれたもの
 
 「ショーコ、神様はね、その人が乗り越えられるだけの<苦労>をお与えになるものなのよ。大丈夫。あなたなら、病気を乗り越えられる」
 この本の作者である、北山翔子さんは、友人からのこの言葉に支えられて、生きる勇気を持つ。
 彼女は32歳。HIV(エイズ)感染者の保健婦である。青年海外協力隊に参加、活動中現地の青年と恋に落ち、感染してしまう。
 
 「神様のくれたHIV」という本を読んだ。彼女は自らの実名を公表し、病名を公表しながら仕事を続けるという、数少ないHIV患者のひとりである。
 日本は生きにくい国だと言われる。人間らしく生きてゆくのが困難な国だと言われる。著者、翔子さんもタンザニアから帰国した時
「なぜ、日本の社会はこんなにしんどいの?」
と問いかけている。
 
 人が自分らしく生きるとはどういうことだろう。
 先日、ある先生にこんな事を言われた。その時、私は看護学校の2年生に進級していた。
「あなたがいっしょうけんめいに頑張っている姿を、他の学生に見せることに、ここでのあなたの存在意義があるのよ」
 私は私なりに頑張っている。誰の為ではなく自分自身の為に頑張っている。体力的にも時間的にも、母として妻として学生として、もういっぱい、いっぱいというのが本音なのだ。これ以上どうやって頑張ればいいのだろう。うつ病の患者に「励まし」は禁忌である。 私も時々本当にギリギリだなあと感じる時がある。うつ病かもしれないなどと追い詰められることさえある。だから正直、先生の言葉には落ち込んでしまった。
 
 差別と戦いながら、北山翔子さんは自分の病を理解してくれる友人を増やしてゆく。仕事の上司、友人、担当医師、看護師などである。「人間らしく生きてゆきたい」という彼女の執念にも似た思いに賛同した人達である。
 私は看護師になった時、冷静に対応できるだろうか。
「無知が迷信を創り出す」
 と言ったのは誰だったろう。きちんと学習を進めているにもかかわらずHIVの患者さんに「恐さ」を感じてしまっている自分を発見して戸惑っている自分がいる。知識と技術と心とをもっともっと学ぶ必要がある。
 神様の与えてくれたもの
 
 「ショーコ、神様はね、その人が乗り越えられるだけの<苦労>をお与えになるものなのよ。大丈夫。あなたなら、病気を乗り越えられる」
 この本の作者である、北山翔子さんは、友人からのこの言葉に支えられて、生きる勇気を持つ。
 彼女は32歳。HIV(エイズ)感染者の保健婦である。青年海外協力隊に参加、活動中現地の青年と恋に落ち、感染してしまう。
 
 「神様のくれたHIV」という本を読んだ。彼女は自らの実名を公表し、病名を公表しながら仕事を続けるという、数少ないHIV患者のひとりである。
 日本は生きにくい国だと言われる。人間らしく生きてゆくのが困難な国だと言われる。著者、翔子さんもタンザニアから帰国した時
「なぜ、日本の社会はこんなにしんどいの?」
と問いかけている。
 
 人が自分らしく生きるとはどういうことだろう。
 先日、ある先生にこんな事を言われた。その時、私は看護学校の2年生に進級していた。
「あなたがいっしょうけんめいに頑張っている姿を、他の学生に見せることに、ここでのあなたの存在意義があるのよ」
 私は私なりに頑張っている。誰の為ではなく自分自身の為に頑張っている。体力的にも時間的にも、母として妻として学生として、もういっぱい、いっぱいというのが本音なのだ。これ以上どうやって頑張ればいいのだろう。うつ病の患者に「励まし」は禁忌である。 私も時々本当にギリギリだなあと感じる時がある。うつ病かもしれないなどと追い詰められることさえある。だから正直、先生の言葉には落ち込んでしまった。
 
 差別と戦いながら、北山翔子さんは自分の病を理解してくれる友人を増やしてゆく。仕事の上司、友人、担当医師、看護師などである。「人間らしく生きてゆきたい」という彼女の執念にも似た思いに賛同した人達である。
 私は看護師になった時、冷静に対応できるだろうか。
「無知が迷信を創り出す」
 と言ったのは誰だったろう。きちんと学習を進めているにもかかわらずHIVの患者さんに「恐さ」を感じてしまっている自分を発見して戸惑っている自分がいる。知識と技術と心とをもっともっと学ぶ必要がある。
 神様の与えてくれたもの
 
 「ショーコ、神様はね、その人が乗り越えられるだけの<苦労>をお与えになるものなのよ。大丈夫。あなたなら、病気を乗り越えられる」
 この本の作者である、北山翔子さんは、友人からのこの言葉に支えられて、生きる勇気を持つ。
 彼女は32歳。HIV(エイズ)感染者の保健婦である。青年海外協力隊に参加、活動中現地の青年と恋に落ち、感染してしまう。
 
 「神様のくれたHIV」という本を読んだ。彼女は自らの実名を公表し、病名を公表しながら仕事を続けるという、数少ないHIV患者のひとりである。
 日本は生きにくい国だと言われる。人間らしく生きてゆくのが困難な国だと言われる。著者、翔子さんもタンザニアから帰国した時
「なぜ、日本の社会はこんなにしんどいの?」
と問いかけている。
 
 人が自分らしく生きるとはどういうことだろう。
 先日、ある先生にこんな事を言われた。その時、私は看護学校の2年生に進級していた。
「あなたがいっしょうけんめいに頑張っている姿を、他の学生に見せることに、ここでのあなたの存在意義があるのよ」
 私は私なりに頑張っている。誰の為ではなく自分自身の為に頑張っている。体力的にも時間的にも、母として妻として学生として、もういっぱい、いっぱいというのが本音なのだ。これ以上どうやって頑張ればいいのだろう。うつ病の患者に「励まし」は禁忌である。 私も時々本当にギリギリだなあと感じる時がある。うつ病かもしれないなどと追い詰められることさえある。だから正直、先生の言葉には落ち込んでしまった。
 
 差別と戦いながら、北山翔子さんは自分の病を理解してくれる友人を増やしてゆく。仕事の上司、友人、担当医師、看護師などである。「人間らしく生きてゆきたい」という彼女の執念にも似た思いに賛同した人達である。
 私は看護師になった時、冷静に対応できるだろうか。
「無知が迷信を創り出す」
 と言ったのは誰だったろう。きちんと学習を進めているにもかかわらずHIVの患者さんに「恐さ」を感じてしまっている自分を発見して戸惑っている自分がいる。知識と技術と心とをもっともっと学ぶ必要がある。
 
 長男の卒業
 
 「特別用事が無いんだけど…電話してみた」
と、早朝5時きっかりに、長男から国際電話が入った。
 カナダに留学して1カ月半になる長男の声は心なしか、まろやかに優しい。母親の私には恋人からの電話のように嬉しい。そろそろ、ホームシックにでもなったのかな、とニヤニヤしてしまう。彼のここまでの道のりのハラハラドキドキを考えると親として感慨深いものがあるからだ。
 
 嫌な予感は最初からあった。
 
 小学校2年生の3学期、2月の事である。玄関で靴を履いていた長男が突然嘔吐した。
「もう、いいよ。もう、学校休もうね」
という言葉で私は「リングの中で戦う息子にタオルを投げた」のである。
 「1年生の担任の割には神経質っぽい感じの先生だな」
 これは小学校の入学式で長男の担任の先生を紹介された時の私の印象である。歳は30代後半で男の先生。背は低く、痩せている。
 担任のY先生は、何もかも細かい性格だ。廊下の歩き方から始まり、文字の書き方まで、きちんと一直線でないと気が済まないようだ。文字の書き間違いで宿題やテストを消そうものなら、跡が残らないように綺麗に消さないと大変なのだ。たとえ漢字が正しくても「減点」となる。行動、勉強、全て「減点」方式なものだから、おおざっぱな息子はすぐ持ち点が無くなってしまうのだ。
 体育の授業がまたふるっている。
 授業でダンスをしているのだが
「リズムに乗って」「軽やかに」
を重視し、「リズミカルに」「軽やかに」ダンスを踊れない子は
「勉強したって伸びるわけが無い」
と言いきる。
 身体が大きく病気がちで、運動おんちの息子には酷としか言いようのない授業であった。
 鉄棒の逆上がり。身体の大きな割に上腕に筋力のない息子は、何度努力しても出来ない。業を煮やした先生は、ついに奥の手を使った。ジャングルジムで逆上がりをさせるのである。背の高い息子は当然、頭をぶつけたり顔をぶつけたり、ということになる。練習のあった日、息子は唇を血だらけにして帰って来た。目は涙で潤んでいた。
 
 そんなにも先生は息子が嫌いなのだろうか。私の胸も痛くなる。
 
 Y先生が息子を嫌う理由はたぶん、こういう事だと思う。
 身体が他の子に比べて頭ひとつ大きい。お喋りで理屈っぽい。なのに、運動神経は鈍い。だから、良きにつけ悪しきにつけすごくめだ目立ってしまう。
 先生にとっては扱いにくい子だったと思う。おまけに、
「何故? どうして?」
 などと何度も問う息子に、母は
「えらいねー、質問して。考えるということは大切な事だよね」
 なんて誉めまくるものだから、息子にとって自宅では誉めてもらえる行動を、学校では否定される。そのギャップにも戸惑っていたのかもしれない。
 登校拒否を決めた母と息子は、対照的であった。
 決心は出来たものの、近所の手前だの見栄だのと、くだらないものを完全には払拭できない母は、自分自身と戦い、日に幾度となく嘔吐する。
「子育ての何所がまちがっていたのか」
 と、自問自答の日々であった。
 息子は違った。実に生き生きとハツラツとしている。近所の人が何所で知ったのか
「登校拒否なんだってね」
なんて声を掛けると
「違うよ。先生拒否さ」
なんて口をとがらせている。
 嘔吐し続けて、その吐物に血液の混じりだしたころ、母も心が落ち着いてきた。
 「なにも、学校なんか行かなくったって生きていける。彼には彼の生き方がある。人と同じでなくてもいい。それを息子と、夫と私とで探していこう」
 結果として、小学校5年生の時インターナショナルスクールに転校した。
「自由で伸び伸び、素直で伸び伸び」をモットーに育てた息子は日本の教育には会わないのではないかと考えたからである。
  転校して1年間は「インテンシヴコース」に入った。英語が母国語でない子たちのクラスである。クラスでの息子は持ち前のお喋りを発揮して、メチャクチャ英語、ジャスチャーの嵐でコミュニケーションを取ろうとするものだから
「積極的で、とても良い子です」
 なんて評価される。
 「水を得た魚」とはこういうことなのだと思う。それほど、息子はニコニコ楽しくてたまらないという感じであった。母子でニ人三脚、英語の勉強をした1年だった。 ありのまま、そのままで自分を受け入れてもらえるというのは子どもの才能を伸ばすものなのだと改めて、感じた1年であった。
 翌年は正規のコース、6年生に編入した。そこでのクラスメートに、あの歌姫、宇多田ヒカルちゃんがいた。当時はまだ無名で、藤圭子さんの娘さんだったなんて事も知らなかった。ましてや、今のようにビッグになるなんて夢にも思わなかった。わかっていたら自宅にお呼びして、サインのひとつ、写真のひとつも取っておくんだったと悔やまれて仕方ない。
 息子がハイスクール進学時、私は第3子、今の次女を出産し入院中であった。学校帰り、彼は毎日のように病院にやってくる。
「学校どうしよう。××はイギリス留学だって。○○はアメリカ行くんだって」
 と家計に余裕のないことを知っている息子は気がきではないようだ。結局、夫とも話し合って横浜のインターナショナルスクールの高等部に決めた。
 ハイスクールは彼にとってどんなであっただろうか。
 後で知ったことであるが,アメリカ英語からイギリス英語へと環境が変わったこと。そのことで戸惑っていたなんてことも私は全然知らなかった。ハイスクールになって初めての面談で英語の先生、ミスジェーンに
「ケンゴ(息子の名前)は、お友達の輪の中に入っていけないようです。授業中にも口数が少ないのでなにか悩みがあるのかもしれません」
 と言われて驚いてしまった。
「少し、黙ってて!」 
と言ったって静かにできない息子が喋らないなんて。いつも明るく友達が多い、ワイワイガヤガヤ好きの息子が、と心配になった。
 息子に聞いてみると、
「今までアメリカ英語に慣れていたからイギリス訛りはとても聞きづらいんだ」
 ということであった。だが、そのハンデイも半年ほででカヴアー出来ている。息子なりに頑張ったのだろう。ちなみに、とても分かりやすい英語を話すミスジェーンは唯一のアメリカ人の先生という事であった。
 金銭面では非常に,きついものがあった。このまま、インターナショナルスクールを経て、海外留学への道を選ぶなら、家1軒分に匹敵するほどの学費が、必要であるから。
 だから、日本の学校に転校させようかと、何度も思い悩んだことがあった。だがその度に息子は涙で訴える。
「僕、何でもするから、今の学校に行かせて!」
 ええい、ままよ。出来るだけやってダメならその時、転校させよう。そうやって何とかハイスクール卒業までこぎつけた。
 ところが、大学進学で又悩んだ。
 息子の進学したいアメリカの大学は、べらぼうに学費が高い。とてもじゃないが、やってやれない。我が家には下にふたりも子供がいる。やがて、夫や私の親の面倒も見なくてはならない時がくる。日本人留学生は奨学金がもらえる可能性がほとんどないという。
 ではカナダはどうだろう。調べてみたら、授業料は日本の国立大学なみ、入寮の費用も日本のそれより安い。本人と相談のうえカナダのトロント大学に、進路を決めたわけである。
 念のため日本の大学は上智大学と国際キリスト教大学を押さえた。ハイスクールではIBを取得していたため比較的簡単に入学許可となったのだ。私にとっては夢のような大学だというのに本人には大学のランクなど分かりようもない。英語圏の大学に魅力を感じている息子には、何の魅力もないらしい。
 IBとはインターナショナルバカロレラのことで、海外の大学に行く時、有利になるばかりではなく、日本国内でも国立大学をはじめ多くの私立大学がインターナショナルの学生に、入学の条件として採用しているものである。つまり、地球規模の共通1次のようなものなのだ。
 願書は提出したものの、ハイスクールの卒業式になっても合格通知は届かない。やきもきしていると、進路指導の先生である、ミスター、ジェイムズから電話があった。息子のインターネットの接続不備から、カナダのトロント大学からのメールが受け取れず、先生の所に届いたと言う。
「ケンゴのSATとTOFL(IBと同様に共通1次のようなものであるが、科目が違う)のスコアでは入学は難しいのだけれど、IBのスコアがとても良かったからほぼ合格でしょう」
との事であった。
そして、数日後、待望の合格通知がやって来た。
 「バンザーイ!」
 嬉しくて、嬉しくて私の方が息子より大きな声で叫んでしまった。
「これで本人の望む道を歩ませてあげられる」
 私はホッとしていた。本当にホッとしていた。だから、その2年後に、夫の設計事務所が倒産し、彼が学校を続けられるかどうかギリギリの状態になるなどと、この時には夢にも思わなかったのである。
 それからのカナダに渡るまでのあわただしかったことといったらこの上もない。持って行くノートパソコンの購入、ビザの申請、etc…。家族ぐるみで嵐の中に居たようだった。
 だが、成田を発つ時の息子は、まるで明日帰るかのように、あっさりとしたものだった。
「じゃあね、行くよ」
と一度も振り返ることもなく、下りのエスカレーターに消えて行く。
 私は涙が零れて仕方なかった。息子が母を卒業して行く寂しさなのだろう。
 「さあ、いよいよ、君の船出だ。息子よ、思うままに望むままに君の人生を歩きなさい。母からの卒業を心から祝福するよ」
 私は心の中で呟いた。けれど、涙だけは止められずにいた。
 


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